「こどもの鍼灸治療」とは
こどものこと
「未完」の脾を持って生まれる「未熟」なこども
こどもは、小さくも力強く成長する一途、しかし弱くもある、文字通り「未熟」な存在です。
周知の通り生まれてすぐは母乳以外は口にできませんし、また知識もなければ物事を考え判断するという知恵も持っていません。その「未熟」さを、中国の古い医学では、脾虚ととらえます。五蔵(肝・心・脾・肺・腎)の中で脾が食物の消化吸収や思慮、体の大きさを左右する血肉の産生を受け持つと考えているからです。
人はみな脾の蔵だけが「未完」の状態で生まれてくるために「未熟」なのであり、脾の「完成」こそが人の「成熟」につながっていると考えるのです。
どのような人間になるか、つまりどのように「成長」するかは、脾の「成長」とその「完成」度に由来するともみなせるため、脾をどのように「完成」させていくかがどれだけ大切かもわかるかと思います。また、脾が「完成」した後も、その人がどう「円熟」していくかという点を支えるため、一生ないがしろにはできないのです。
後述しますが、具体的には脾を養う「食」と「知恵」が重要となります。
五蔵のより不調和な状態をもたらす「未完」の脾
中国の古い医学は、偏りや関係性をことさらに重視するため、当然ながら単に「未完」の脾のみの「完成」を待てばよいとは考えません。脾の「未完」な状態は、こどもにとっては当たり前の状態でありながら、同時に常に他の四蔵(特に脾<肝)との「不調和」を抱えることを生まれながらに決定づけられているのです。それは、「完成」した脾(それがどういう形にせよ)を持つおとな以上に「不調和」であり、より病的な状態をあわせもっているということでもあります。
こどもがおとなよりも全般に弱く不安定であるのはそのためであり、「不調和」の軽重によって、よく知られている疳の虫(かんのむし)・喘息・アトピー・消化不良・食欲不振・過食・肥満・下痢・便秘・風邪をよくひくなどをはじめとした、多種多様の症状が出ることになります。
脾の「完成」度がその人の一生を決定づける
上記した諸症状は、おとなになるにつれ自然と治るものもありますが、一生もの(持病)として将来を共にするということも多々あります。それは、「未熟」な脾をうまく養えずに五蔵の不調和が大きい状態のままの「不完全」な「形」に「完成」させてしまった、つまり本人の「成長」する力を十分に発揮させられなかったがためと言えます。そうなってからでは手遅れです。“鉄は熱いうちに打て”と言うように、脾の「成長」が終わってしまう前に、また病がまだ新しいうちに食生活を見直したり鍼灸による治療を加えることで脾を養い、よりよい「成長」ができるよう心身のバランスを整えてあげることをおすすめします。
脾の「成長」を支えるものと妨げるもの
脾を養い、伸びやかな「成長」を支えるのは、「食」と「知恵」です。故に脾の成長を妨げ五蔵の「不調和」をより強くさせる条件も、「食」と「知恵」です。
もうおわかりでしょう。すぐに思いあたるのは「食の乱れ」です。
「知恵」については多方面に及び、私自身が「成熟」した大人ではないため偉そうに何かを語れるわけではありませんが、「知恵の断絶」とまとめてよいかと思います。
私が鍼灸の道を志した高校生の時、片方では、自然豊かな山口県周防大島の実家(生まれ育ちは横浜ですが)を知っていたため、玄関を開けて、目の前に山や海、森や川、畑や井戸などが広がっている生活を望んでもいました*。まったく矛盾していますが、自分の選択でありながら、これほど自然からかけ離れた生活を送る日々ほど無駄に過ごしていると思うことはありません。まして共働きで家に居させている子供には申し訳なく思う次第です。できるだけ自然に連れ出しはしても、彼らが自由意志でいつでも触れられないのは残念でなりません。そうできない自分自身も。
「天空の城ラピュタ」の「土に根をおろし、風とともに生きよう。種とともに冬を越え、鳥とともに春を歌おう」、「どんなに恐ろしい武器を持っても、たくさんの可哀想なロボットを操っても、土から離れては生きられないのよ」という台詞が刺さります。もう遅いのかもしれませんが、あまりに多くの人々が天空に住まい、さらに遠くへ流されていることに気づく時なのではないでしょうか。
*日経新聞の記事「子どもの「外遊び」は驚くほど脳にいい、一生ものの能力に影響」の指摘を読むまでもなく、多くの方はそう感じているのではないでしょうか。AIが人に代われるはずはないのだが、、、 だから、核家族化や都市部での生活、第一次産業の衰退などによる家族間での「知恵」の伝承が途絶えただけでなく、生きるための「知恵」自体の消失も見過ごせないのです。
スマホに負けるはずはない、はず、、、
伝えるべき大切なことがまだあるのなら、あるうちにその背景には、古くから庶民に許される「パンとサーカス(娯楽)」、そして戦後の日本で進められた「3S政策」などがあり、その影響下にある私たちが考えるべきことも少なくありません。世代をこえて常態化した異常事態とでも言えばよいでしょうか。
ジョージ・オーウェル『1984年』に描きだされる様々な場面は、今そのもの。「きつい肉体労働、家庭と子供の世話、隣人とのつまらぬいざこざ、映画、サッカー*、ビール、そして何よりもギャンブル。それが彼らの心を占める全てである」(早川書房新訳版111頁)。
*テレビに向かって叫び、選手たちの特徴や成績などを一生懸命に分析して、彼らのプレーについて口論する。さらには、気に入った選手のユニホームを買って球場にまで足を運ぶ▼。まるで自分のことのように。他人の応援も結構。しかし、一番大切なのは自分、なによりもまず自分の応援者であれ。「熱中」とは自分に対してのこと、自分こそが特別なのだから。
私は、幼い頃から観戦が苦痛でした。なぜなら、自分はただ応援するしかできないからです。つまらないのです。もし自分が興味のあること、好きなことであったら、なおさら。うずうずしてじっとしていられなくなりませんか。観戦するのではなく、自分が今すぐそこでやりたいと思うのが自然ではないでしょうか。彼らにどんなに及ばないとしても。プロは、やはりプロ。すごいからこそプロ。だからといって、感情移入はできないのです。逆に、尊敬するからこそ、それだけ刺激を受けます。「自分はなぜそこに立っていないのか」、「どうしたらそこにいけるのか」、「与えられる側ではなく、自分が与える側でありたい」と。人を応援しないのではなく、応援しつつも、だったらそれ以上に自分に「熱中」したいと考えてしまいます。人の人生は、微塵も自分の人生ではないのです。人は「人」、自分は「自分」。
▼古くは「他人の犠牲において楽しむ娯楽」を意味する「Roman holiday(ローマの休日)」に通じ、人の不幸を喜ぶ下卑た感情「シャーデンフロイデ」と表裏一体でもあります。自分のことを顧みず、自分を棚上げして、他人の幸不幸に「熱中」し、また一喜一憂して生きることは、たしかに古くからの「娯楽」にはなるでしょう。しかし、それらに支配された人生が果たして、、、。「霜月 やよい@「数」と「幾何学」と「象徴」」さんの記事より その先にある映画「のび太と空の理想郷」のような世界がいいですか?「(全員の心を)きれいにするんじゃない、心を奪うんだ」「みな心を失いパーフェクトワールドになるのだ」「みんな自分で考えて」。ほかにもオルダス・ハクスリー『すばらしい新世界』、「デモリションマン」、「マトリックス」、「アイ、ロボット」、「ロスト・エモーション」などなど挙げればきりがありません。
最近ではスマートフォンの普及とAIの解放もあいまって、「スマホ依存」が一挙に進んでいるように見えます。私は徒歩で通勤することが多いですが、夜でもおかまいなしに「歩きスマホ」。それもほとんどの人と言っても決して誇張ではないほどに。
犬の散歩中ですら、ですよ。犬の散歩は、飼い主と犬の関係を確認する時間であり、犬の大切な外出時間のはず。他の犬との交流や排泄を飼い主がしっかり管理する必要があるのに、飼い主自体が人との交流が苦手で避けているふしもありますが、ひたすら「歩きスマホ」。その影響としか考えられないのですが、犬のものと思われる糞があちこちに落ちている始末。それもここ数年の間で目立つようになったことです。
「歩きスマホ」の人は、例外なく前を注意しつつ上手に歩いていますと言わんばかりですが、そんな技術を磨く必要など微塵もなく、ただの迷惑でしかありません。そして、側から見れば「心を奪われている」ことはかくしようもなく、ふらふらと蛇行し、のろのろと進む、人に当たりそうになっても「相手の目すら見ない」し「謝る」ということは皆無、むしろ「お前がよけろ」と言わんばかりで、まるで「ゾンビ」のような特有の歩き方になっています。すれ違うたびに、ただただむなしくなります。大人に限らずこどもも同じ。治安が悪くなれば、即座に狙われますよ。
周辺に注意したり、周囲を気遣うこと、他人から自分がどううつるかという客観的視点の決定的な欠如は恐怖すら感じます。また、誰かとの会話中ということもあるようですが、ほとんどは「スマホ」を使った「創造的な活動」ではなく、ゲームや何かを視聴する一方の完全に「受動的な娯楽の享受」に徹しているようです。どうであれ、とにかく「みっともない」ですよ。人がロボットのように 与えられ続ける他人からの様々な情報に加え、AIにより得られる膨大な知識、さらには現実と見分けがつかなくなるほどの仮想現実*、さらにはVRを用いた仮想空間、それらがもたらすのは、「無思考」と「無知」、そして「思考力」の低下、「知恵」の縮小と「独創性」の消失、「対人関係」の消滅、つまり「人らしさ」の喪失ではないでしょうか。
*対人的な「推し」や対物的な「対物性愛」「フィクトセクシャル」でさえただならぬ状況だと思いますが、今や仮想の「AI彼氏」「AI彼女」との恋愛や結婚にまで行き着いてしまっています。ほかにも「スマホ依存」の先にあるVRを用いた仮想ペットとの触れ合いなど、様々な場面での侵食を目の当たりにするとゾッとしますね。それから、ここではやむを得ず「推し」「対物性愛」「フィクトセクシャル」などの用語を使っていますが、これらが認知されること自体が、「病名」などと同じく人がそれを受け入れることにつながっています。ある部分では、それを助長する一役を買ってしまっているため、つらいところでもあります。とにかく、個人の趣味や好みをとびこえている、なんだか変だ、異様だと感じていただけたらと思います。スマホ依存のその先はVRに視覚を奪われ半仮想現実で生きることに 行き着く果てはここかもしれません それから、スマホの電磁波がもたらす身体的影響もじゅうぶんに注意していかなければなりません。幼いほど脳へのダメージが強く、使う時間に比例して学力への影響も顕著であるという報告もあります。詳しくは、霜月やよいさんのnote記事「電磁波について」とlivedoorNews「研究者が思わずゾッとした「子どものスマホ使用時間と偏差値の関係」小中学生7万人調査でわかった衝撃の事実」をご覧ください。
5Gアンテナが整備され(総務省:新たな目標に基づく5Gインフラの整備状況(令和5年度末)の公表)、家庭内ではWi-Fiの電波が飛び交う環境は憂慮をこえて早急な対策が必要となる状況にあると、私たちは認識しなければならないでしょう。挙げればきりがありませんが、livedoorNews「5Gの電磁波が人体に与える影響について専門家が警告」、Alzhackerさんの記事紹介(①学術書:電気通信で使用される周波数 統合放射線生物学評価(2022)、②研究論文『光、電磁場、水が生体リズムに及ぼす影響』2024年、③調査報道『人々は目を覚ます必要がある:高レベル無線放射線環境の乳児、発達遅延リスクが3倍に』Suzanne Burdick博士)もあわせてお読みください。急速に変わりゆく世界、その中にあって、親から子に伝えるべき生きるための大切な「知恵」、大人たちが子に示すべき「背中」や「生き方」とはどんなものなのでしょう。もちろん、「変化した世界」に順応する子との関係をどう築いてくのかという問題も見過ごせません。そうしたこともみなさんと考えていけたらと思っております。
左と右のどちらが好きな世界ですか さて、ここからは「食」に絞って話を進めます。
飽食の現在、アメリカに倣いファミリーレストランのドリンクバイキングでうろちょろする小さなこどもや休日の昼間に親子でファストフード店で食事をするといった光景を目にすることが日常的になって久しく、ほかにも、甘いジュースやお菓子を離乳後からすぐに与えだしたり、ぐずると手がつけられないためにごまかしとしてそれらをあげるといったことも多々見受けられます。食物を消化吸収する脾が「未熟」であるこどもには、味の濃いものや刺激物、冷たいものなどは受け付ける力がそうあるものではなく、結果的にそれらは負担となり、長期的には脾の「成長」を妨げることになります*。いわゆるおいしいものは、「甘」と書き、「うまい」「あまい」と訓じます。それらを取りすぎれば、ただでさえ「未熟」な脾がさらに弱ることになり、文字通り「甘い」「わがまま」な性格になってしますし、「きれやすい(肺脾<肝)」のも特徴のひとつです。これはおとなとて同じことで、気をつけないと精神的に不安定になってしまいます。そうして、ゆがんだ状態のまま脾が備わってしまえば、思慮深さに欠け善悪の判断がうまくできない状態(思慮分別が変容する事態)に陥ってしまうのです。これまであった倫理観というものが近ごろ通用しなくなっている一因は、ここにもあるのかもしれません。
*上記したいわゆる超加工食品(見た目や味を偽るものを含む)や様々な加工食品、またそれらに含まれるおびただしい食品添加物は、こどもだけでなくおとなにとっても毒に等しいものです(これらの偏食は、新型栄養失調と言われるような状態にも陥ります)。その継続的な摂取は、脾を「故障」させ、人間性を損ない(脾虚)、肥満(湿熱)となり、果ては実質臓器の変調、つまり重い内臓疾患への移行を誘発する看過できない病因のひとつとなっています。あわせて映画「スーパーサイズ・ミー」「スーパーサイズ・ミー2」をご覧なってください。ファストフードにまつわる問題を一気に知ることができます。それでもなお、あなたは食べる気になれるかどうか。中毒度合もきっとわかるでしょう。
ふと変だと思ったことはありませんか。例えばりんごジュース。果汁10%未満であってもりんごジュースであり、りんごの香りと味がします。100%のストレートとの違いは何でしょう。そして、どちらが私たちにとって飲むに値するものなのでしょう。よくよく考えれば、小学生でもわかることです。あなたの体はどちらの「食」によって形作られていますか この肉も実在しないんだよな
口の中にほうり込むと
マトリックスが脳に信号を送り
うまいと錯覚させる
プラグをはずされて9年
俺は悟ったよ
〝無知は幸福〟
映画「マトリックス」 サイファーの言葉また、いただく「食」もさることながら、そもそも食べることがどういうことなのかということも、十分に理解しておかなければならないでしょう。
私たちが「生きる」ために他の動植物の「命(食)」をいただくこと、それが「食べる」ことの本質です。「楽しむ」ことが一番の目的でも、また単なる「栄養補給」でもないのです。だから、「ながら食べ」はもってのほか、それならば食べない方がよいくらいでしょう。次に「早食い」。「命をいただく」わけですから「かみしめる」ものではないでしょうか。「よくかんで」「ゆっくり」食べると言われますが、「消化」もさることながら、一番にはいただく「命」への感謝が込められているはずです。「食べ過ぎ」たり「欲のままに食べる」ことが、単に体によくないことをこえて、軽薄であることもわかっていただけるでしょう。それから、「食べたくない」のに「仕方なく」食べる、「食べられる状態にないのに」「栄養をつけるため」「体のため」に「無理をして」食べることも、「命」を粗末にすることであり、また同時に自分に無理を強いることにもなりますから、やはりいただく「命」に申しわけがたたちません。「こぼす」「捨てる」こともそうです。「残す」ことも同じですが、これはやむを得ない時もあるでしょうから、大切なことを忘れずに。「(命を)いただきます」、「ごちそうさまでした」、「腹八分」、「命」への感謝、「食」の大切さ、「食」に対する心構え、そういったことを日々かみしめることも、脾を養い人を育てることの一環と言えると思います。家の食卓でも、お店のテーブルでも、おなじみの光景となりましたね そうしてみると、「忙しい時」の「○秒チャージ」、「手軽に栄養補給」、「偏った食生活のサポート」を謳った「栄養ドリンク」「バランス栄養食」「サプリメント」などが、いかに軽薄で私たちをあやうくさせているかがわかるのではないでしょうか。手軽で便利で楽でといいことづくしに見えていたそれらが、「恐ろしい何か」に一変しませんか?私たちが本来必要としている「生きる」ための大切な「命」から遠ざけ、よくわからない「栄養素」らしきなにか**で「生きながらえる」ことをみずからよろこんで求めるよう仕向けられているのです。すでに高栄養食やドリンクは始まっています***。とにかく「栄養」だけ摂ればよいとなれば、「命」への感謝は簡単に消え去ることでしょう。そして、いずれ「食」そのものも不要になるのでしょう。いわゆる「時間対効果(タイムパフォーマンス)」の重視もあいまって、調理だけでなく、咀嚼さえわずらわしくなる。私が「栄養学」に違和感を覚えるのは、このためでもあります。
**それらの商品の裏面の食品表示(一括表示)を確認してみてください。商品の表面のいいことづくしの甘い謳い文句とはまったく異なり、よくわからないカタカナの成分や食品添加物の羅列にきっと驚くことでしょう。
***これらが「必要とされる」と言われる場面のひとつ「食欲不振」は、年齢を問わず食を欲していない状態、つまり食べるべきではない状態、食べるとさらに不調になる状態と考えるべきです。いつなんどきでも栄養を摂る必要があるという情報によって植えつけられた「脅迫観念」であり、商品を売りたい側の意図がみえすく一例でしょう。その最たるものが来たるべき死を間近にひかえた人にする「延命措置」です。「まだ死んで欲しくない」という家族の思いを利用するもので、本来、「無理に栄養を補ったりすれば、延命してもご本人は苦しいだけですよ。そっとして楽に逝かせてあげましょう」と諭すべきです。もっとも今の医学にそのような考えはないようですが。
やや話はそれますが、文字通り「延命」する措置ですから、もう終わりを迎える準備に入っている体に鞭を打つようなもの。「延命措置」をされた人は、苦しみます。それでも、あなたの思いを通しますか?自分の思いで大切な人を苦しませることになってもよいのでしょうか?自分の苦しさを和らげるために、自分の気が済むように、その思いを通そうとしてはいませんか?自分の思いではなく、大切な人(ペットも含む)のことを大切に。これは、「子どもを見守る親」ということにも通じている大切なことです。食べるものも見るものも、注意深く「選ぶ」時代です 「語彙」の減少が「思考」の減少につながるように、「食」の「軽視」や「栄養素化」は「食」への意識低下や「食文化」の崩壊、自給率の低下をもたらし、果ては与えられる餌を待つだけの家畜化、つまり心身が矮小化し、どんどん退化していくことでしょう。
人を家畜と化す魅惑的なものたち
超加工食品 ジュース 酒 飽食 物欲 スマホ ゲーム お金「食べたものがその人をつくる」「食べたものが自分になる」、だから「食べるもの」が大切になるのです****。「知恵」とて同じことですよ。
****なにを食べるかという問いも出てくるかと思います。ごく簡単に言えば、昔から食べられているものをいただくことです。ごはんと味噌汁を中心にした食事です。パンより米、肉より魚、油炒めより煮炊き、甘味よりも塩気、洋食より和食、間食より食事、季節の食べ物など、難しく考えることはありません。繰り返しになりますが、そこに「○○の食材に含まれる栄養」が、「体にいい」から、「○○病の予防」になるからという指標が加わると、とたんに「栄養素化」して、「食」の大切さが消え去ってしまいます。日々、濁流のごとく流される覚えきれないほどの雑多な健康情報には本当に注意していただきたいと思っています。気をつけていてもすぐに足をすくわれ流されてしまいますから。
脾の大切さ
脾がいかに大切かをおわかりいただけたでしょうか。
脾の働きは、一生を通じて「食」や「知恵」を受け「体型(肥痩)」や「性格」を形作ることです。
脾は、生まれた時には「未熟」で、「食」と「知恵」を栄養にして育ち、思春期が終わる頃に「完成」します。故に、栄養となる「食」と「知恵」が、過不足なく良質であればあるほどしっかりとしますし、不足したり多すぎたり、あるいは質が悪ければそれなりになってしまうことでしょう。また、自然からかけはなれた温室であったり、肥料(贅沢な食や食品添加物など)や農薬(薬)のような添加物が多ければ多いほど、見た目はきれいに仕上がるかもしれません。けれども中身はどうか。形ばかりがきれいで、弱い体、偏った心に育ってしまうでしょう。
こどもの「成長」にとって必要なのは、とにかく「中身のつまった元気」な脾を育むことです。そして、しっかりと「完成」した脾を持つおとなになり、自分をじゅうぜんに発揮できる素地を作ることです。そうであれば、形は人それぞれ「いびつ」でいいわけです。
その先にある人の「成熟」とは、「完成」した脾を引き続き養い続けることと言っても過言ではないでしょう。こどもの時に身につけた養い方、特に親から教わったそれは、ひとりで歩む時に、そして、誰かと共に生きる時に、親になってこどもを育てる時に、生かされることでしょう。そうして、人はそれぞれ「円熟」していくのでしょう。
言わば「親が子に伝える大切な教え」、それが「子が受け継ぐに足る教え」であるよう、親は常に学び努力しなければならないのだと、まずそれを私自身がしなければと、そう思う次第です。
小児鍼のこと
適応年齢
はりやきゅうにはお年寄りがするものというイメージがあるようですが、実際には違います。産まれてすぐの赤ちゃんでも治療できますし、より健やかに育つという意味でも有効な手段のひとつとなります。理想を言えば、鍼灸の持つ“治未病(未だ病ならざるを治す)”という性格を最大限に生かし、目立った病気がなくとも小さい頃より治療を続けていくことをおすすめしています。
治療時間
治療の時間・量は、ともにおとなにくらべてごくわずかになります。ですから、5分程度が目安になります。
治療期間
「何回くらい通えばよいのか?」という質問をよく受けますが、状態は人によって異なりますから、たとえ同じ症状であっても3ヶ月であったり半年であったり、あるいはもっとということも多々あります(おとなも同じことです)。また、簡単に治るものは本当にごくわずかで、体の状態を根本から変化させるには、それなりの時間が必要です(すぐに治るものは、ほっておいてもよくなります)。たとえば、アトピーや喘息などは、最低でも1年は必要です。それは、季節によって症状の軽重が変化しますから、翌年のひどくなる時期に悪化をしないということが確認されない限りは良くなってきているとは言えないからです(一見良いと思われる時にも治療を重ねることで、ようやく体の状態も変化するというものです。喘息や花粉症、メニエールなどはその最たるものでしょう)。時期によって症状が変化するのは、人の体もまた季節の移ろいとともに変化しているからで、治療の効果も同じく3ヶ月(1シーズン)経つ頃に顕著となってきます(もちろんその間にも少しずつ変化はしていきます)。 このようなことから、まずは週に2~3回(最低でも週1回*)の治療を3ヶ月は続ける必要があります。最後は子供さんが元気に成長するということが一番の目的ですから、いずれにせよ多少の時間をかけてあげる必要がありますし、かければかけるほど良いとも言えます。*治療を治療たらしめるためには、症状の状態に関わらず、週1回という間隔で続けることが必要です。それ以上の間隔をあけての治療では、継続して効果を積み重ねていくという点でははなはだ弱く、回復の時期が遅れる、あるいはよくなっていかないということになっていきます。
使用する鍼
おとなと同様の鍼または先の丸い鍉鍼(テイシン)を用いて皮膚をさする皮膚鍼という方法で治療をします。ですから、鍼を刺すということは一切ありませんので、“痛い”ということとはまったく無縁なものです。さするだけで大丈夫なのか?と思われるかもしれませんが、こどもは何事にも敏感ですから、少しの治療で驚くほど反応しますので心配はいりません。
使用する灸
こどもにもやはりお灸はします。おとなと同じく熱さを感じたら取る大きい知熱灸やごく小さな点灸(糸状灸)を状態に応じて用います。点灸は、ごく小さなお灸ですので、一瞬ちりっとした感覚がある程度でやけどの心配はありません。古くから“ちりげの灸”として知られる背中の身柱というツボにする点灸は、こどものみならずおとなにもします。
保護者の方へ
ここまで脾を中心に説明してきましたが、最後にいくつかお伝えしておきたいことがあります。
子を守ること 「自分を知る」ことの大切さを教えること
こどもの具合が悪くなったり、なんらかの不調があった場合に、すぐに病院にいき、病名や薬をもらい、言われた通りにすることが「よい対応」であり、それが「よい親」であるとは限りません。
当院HPの中で何度も触れていますが、まずは「自然に治るのを待つ」ということをしてみてください。「見守る」ことはとても忍耐のいるつらいこと。それは、無関心でいることでも、ただ手をこまねいているということでもなく、本人に寄り添い、まずは人が本来持つ「治る力」を信じて待つという毅然とした態度です。
「これくらいなら大丈夫」「ちゃんと休めば治るからね」「ずっとそばにいるからね」「つらいだろうけど」「がんばろうね」と、安心させ、元気づけてあげることほど、こどもにとって心強いことはないでしょう。
もし不調の原因がわかるのであれば、「さっき冷たいものを飲み過ぎたからだよ」「好きなお菓子ばかり食べてたからだよ」「寒いのに薄着でいたからだよ」「昨日、遅くまで起きていたからだよ」、だから「治ったら、今度はそうならないように気をつけようね」と教えさとすことも親の大事な務めだと思います。
まずは「何がいけなかったのかを振り返る」とともに、よほどでなければ「落ち着いて様子を見る」、その結果「自然と治る」ということを繰り返し体験していくと、そうした思考をこども自身が自然とできるようにもなり、「たいていのことは大丈夫」という自信がつきます。ゆくゆくは「たいていのことは自分で判断して自己流の対処ができる」立派なおとなになるでしょう。
親が大切なことを教え、子は学ぶ、その子はそれをまた自分の子へと教え伝えていってくれることでしょう。「自分(の状態と限界)を知る」ことができている証であり、それが「子を守る」ということ、そして何よりも私たちが誇るべきことではないでしょうか。
子は親の背を見て育つ
こういう点から見ても、親であるあなたが自分の不安や心配にたえられず、即座に薬を飲ませたり、病院に行くことは、決してよいとは言えません。つらいのはほかの誰でもなく、こども自身であるということをどうかお忘れなく。○○だからすぐに病院に行きましょう 「病は気から」、「これくらいなら大丈夫」という「見通し*」による「安心感」が、たとえその時がつらくても「負けない」という気持ちの「強さ」によって支えられ、早く治ることはあっても、不必要に「自ら(そして周囲の)の不安でこじらす」ことはなくなります。いずれ、周囲の心配をよそに「こんなの平気だよ」「心配し過ぎ」とさえ言うようになるはずです。
*「見通し」を立てるうえで大切なことがもうひとつ。とりわけ多い「鼻水」「くしゃみ」「咳」「下痢」「嘔吐」「熱」は、「風邪」であれ「インフルエンザ」であれ、体の正常な防衛反応であり、必要な変化であるということ。つまり、治る過程にあり、正常な経過であって、「よい」という「見通し」が立つわけです。
しかし、それをあえて薬で抑えつけることは、なるほど、その時は治ったように見えるかもしれませんが、「臭いものに蓋をする」ことであり、長い目で見れば確実に事態を悪化させているのです。あえて科学の論を取り上げれば、「発熱」は「感染時の生態防御応答」であり、37度以上で「バイ菌」を退治する「武器」として「活性酸素を作る」ことがわかっています(NHKでも取り上げたようです)。早々に解熱してしまっては、みなさんんが恐れ遠ざけようとしている「バイ菌」を、自分で退治できるはずなのに、自分から積極的に退治できないようにしているのですよ。解熱してもいつまでも体調がすぐれないのは、あるいはそういうところから来ているのかもしれません。よくよくお考えください。それから、いまさらとも思いますが、「効果乏しい医療」「無価値・低価値医療」の代表例として風邪をひいたときの痰(たん)切り薬、抗菌薬、せき止め薬の処方などがはっきりと挙げられもしているのです(日経記事「「効果乏しい医療」実施46% 無駄遣いで国民負担増 国、報酬算定の厳格化検討」)。医療費の無駄遣いの代表例でもあり、医者は患者が求めるからと言い訳し、患者も医者が出すから、TVやCM、広告で言っているからと他人事にして、医者と患者の「共依存」という無駄な日々を繰り返しているに過ぎません。そして、そのおおもとは薬を作る会社であることは言うまでもありません。
それとも、ちょっとの「鼻水」「咳」「熱」「下痢」「痛み」などで、「病院に行きたい」「薬飲む」とせがむようなこどもの方がよいですか?そのままおとなになったらどうなるのでしょうか?
本当によくない時は、側から見てもわかります。本人が弱音を吐いても「これくらいなら大丈夫」と言えるくらいがちょうどよいでしょう。
例えば本人がケロっとしているのに、熱が出た、鼻水が垂れている、咳き込んでいるから「これは大変」と、「この程度」のことでことさらに騒ぎ立てることが、どれほど本人を不安にさせ「本式の病人にさせる」迷惑な対応かということは、もうおわかりになるかと思います。まして、病名がつこうものなら、どうなることか(「当院について」>こんな方に>不調の本質を見失っている方にを参照のこと)。おまえは○○だから●●しなきゃダメだ 子は親の背を見て育つもの。もし、あなたが自分の不調の時に、すぐに病院に行き、薬を飲んで、なにがなんでも抑えていくという対応をしてきているのであれば、これからは見本としての態度を示すこともやっていってください。それは、あなた自身の元気さに直結している問題でもあるのですから。
左を鍼灸、右を西洋医学に言い換えても同じこと
とにかく薬を飲めば安心だ
まずは鍼灸院に
親の務めは、我が子を元気に育てること、不調に陥らないように日々の体調管理に気をつけてあげること、安心できるよう「大丈夫」という態度を示すことなどでしょう。同時に、親もできるだけ元気であるということも含まれることも書きましたね。
だいたいのものは治っていきますが、治らない場合には、あるいは少しでも早く元気にさせてあげる手助けに、さらにその先のいつも元気でいられるように、これからは「まず鍼灸院に行って相談してみる」、そして「鍼灸による治療を取り入れる」という新しい対応をしてみてください。
「自分(の状態や限度)を知る」ための様々な助言や「元気に育つ」ことのお手伝いをいたします。
可能ならご家族みなで
こどもは、あらゆることに対し敏感に反応します。親がそうであるように、こどもも親の心身の状態を常に感じとっていることもご承知ください。そのため、そうした相互関係が双方の症状の原因になっている場合も多々あります。思い当たる節のある方は、一緒に治療されることをおすすめします。また、幼いお子様と来院する場合には、「はりを打ってもらいに行く」とか「○○を治してもらいに病院へ行く」などとお子さんの恐怖をあおらないようにしてあげてください。本人には「ちょっとお話をしに行こう」とか「元気にしてもらいに行こう」などと言っていらしてください。
施術するのは私たちですが、治療を続けるのはみなさんです。どんなことでもそうであるように、治療には根気が必要となります。ご縁のある方々には、どうか面倒がらず治療を継続していただければと思います。
お子様に限らず家族が元気であることは、家庭に、ひいては社会に明るさをもたらすことでしょう。































